汝言う、六度万行、斉(ひと)しく修すと。
我れ見るに皆な是れ造業。
仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業。
菩薩を求むるも亦た、是れ造業。
看経(かんきん)看教(かんきょう)も亦た是れ造業。
仏と祖師は是れ無事の人なり。
君たちは、六度万行をすべて実修するなどと言うが
わしからみれば、みんな業作りだ。
仏を求め、法を求めるのも
地獄へ落ちる業作り。
菩薩になろうとするのも業作り。
経典を読むのもやはり業作りだ。
仏や祖師はなにごともしない人なのだ
引用:臨済録(円覚寺ホームページ) https://www.engakuji.or.jp/blog/27330/
とあります。
人は生きていく上で
必ず業(カルマ)が生まれる。
良いことをしよう、良い人になろうと言う
志があっても必ず業が生まれる。
人は業を造って生きている。
何もしないことなどできない。
「造業だけれども、造業をやってゆくしかないのだ」
ということですが、
私は少し考え方が違います。
私もかつては
良い行いをしたい。
あの人のように立派になりたい。
と言う目標や、憧れがありました。
そのように
努力をされている方も
多くおられることでしょう。
ですが、
最後の文面、
仏と祖師は是れ無事の人なり。
(仏や祖師はなにごともしない人なのだ)
なにごともしない人…
とは、
自分が無理せずとも
できることで
結果的に人の役に立っているなら
それで良い。
と言う解釈をしています。
ですから、
今まで何かになろう、
誰かのように立派になろうとして得た
スキルは使うことになりますが、
私と同じようにして別のスキルを得た方々と支え合い、
お互いの得意なこと同士で無理せずとも幸せに生きていく。
という仕事の仕方をしていきます。
と言う人もおられるでしょう。
人間はどんな人でも
好きなことがあります。
好きなことで人にできることがあります。
何もできない人はいません。
例外なく誰でもです。
それが自分ではわからないだけです。
それを見つけて
一緒に楽しくいきていこうというのが
私の仕事です。